西南戦争

官軍

「風雲の刻」、がんばって書いてたんだけど、アップできませんでした(>_<)
もう少しお待ち下さいね。

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熊本レポート第8段は前回に続き山鹿のお話ですが、今回は官軍の動向にスポットを当ててみようと思います。

田原坂が落ちると薩軍は山鹿を退却しますが、彼らを追うようにして同地に入ってきたのが、観樹将軍こと長州の三浦悟楼率いる第三旅団です。

画像は薩軍の野戦病院になっていた光専寺ですが、お座敷の欄間が無残に壊されているのがわかります?
ここにはかつてリスとブドウの彫刻がほどこされていたそうですが、官軍兵士に踏み込まれ、ぐちゃぐちゃに壊されてしまったのだとか。

「賊をかくまっちょるじゃろう!」(何となく長州弁)
なんて怒鳴り散らしながら、やりたい放題の乱暴狼藉。
他は全て修理したそうですが、よっぽど腹に据えかねたのか、この欄間だけは破壊されたまま今日まで保存してきたそうです。

官軍の士官たちは、当初警察署に本営を置いていましたが、後に「梅の井」という温泉旅館に移っています。
光専寺のご住職も、旅館の女将さん&ご主人も「梅の井」のことはご存知なかったけど、当時は山鹿一の旅館だったのでしょう。

その「梅の井」で、ある夜とんでもない事件が起こりました。
わらじ履きのまま上がりがまちに腰を下ろし、冷酒をあおっては握り飯を食べていると、「切り込み!」という衛兵の叫び声が。

武器をつかんで防戦にあたるのかと思いきや、薩軍の抜刀斬り込みに恐怖した彼らは、クモの子を散らすように逃げ出しました。
泉水に飛び込む者、すべって水中に横倒しになる者、瓦を並べた塀によじのぼろうとしてガラガラと瓦を落とす者……。

当時陸軍中尉だった矢吹秀一は、庭をくるくると二回ほど回った後、旅館の裏手に逃げ込んで、蔵と蔵の間に身を潜めていたそうです。
ところが、いくら待っても、辺りはしんとしていて何も起こらない。
さては誤りだったかと思い、気恥ずかしい思いで座敷に戻ってみると、他の者も一人二人と戻って来て、再び全員が一同に会した。

互いの様子を見てみると、頬をひどくすりむいている者、全身ずぶぬれになっている者、泥だらけの者、服が破れている者など、目も当てられぬありさま。

さらに座敷を見回すと、握り飯は踏み潰され、徳利は蹴り散らかされ、軍刀その他の武器だけがもとのまま整然と置かれていた。
人の身体の形にすぽっと抜けた障子が二三三枚あったといいますから、これはもう笑うしかない。

それにしても官軍士官はへなちょこだなあ。
武器の性能が拮抗していえば、薩軍が勝っていたかも。

光専寺

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熊本レポート第7話。
今日は山鹿をご紹介します。
「山鹿燈籠」で全国的に有名だそうですが、現地に行くまでそんなことさえ知りませんでした。
熊本市内ではなく、わざわざ山鹿に泊まったのは、単に温泉に入りたかっただけ。
ところがどっこい、ponpokoも歩けば幕末史跡に当たるということで、旅館の売店に置いてあった商店街マップで以下の情報をゲット。

<光専寺>
天正6年(1578年)創設の浄土真宗のお寺です。
西南戦争の時、有志によって日本で始めて「民権体制」が敷かれたことで有名です。

有名なんですか?本当に?
それはまあ良いとして、西南戦争という4文字に引かれて、早速翌朝行ってみたわけです。
そしてわかったこと。

桐野利秋率いる薩軍最強の四番大隊を主軸とする軍勢が、熊本協同隊などとともに山鹿を占領したのは、明治10年2月24日のことでした。
(山鹿は久留米から植木・熊本に南下するルートの中間にあり重要な戦略拠点だったのです)
2月26日から3月21日までこの地で五回にわたる戦闘が展開され、官軍324名、薩軍二百数十名の戦死者を出しています。

光専寺は開戦当初は薩軍の兵站基地でしたが、後に野戦病院として使用され、本堂には遺体を、庫裏(奥の間)には負傷者を収容したそうです。

「このお寺に薩軍兵士のお墓がないのは、なぜだと思いますか?」
と訊ねられ、わかりませんと答えると、ご住職が興味深いお話を聞かせて下さいました。

山鹿の人たちは、「亡くなった兵士の身内が遺体を引き取りに来るかも知れない」と考え、薩軍の兵士の遺体を塩漬けにしてお棺に詰めて置いておいたそうです。
すると戦争終了後に、兵士の身内が本当に訪ねて来て、次々とお棺を引き取って行ったのだとか。
光専寺に薩軍兵士のお墓が一つもないのは、全ての遺体が鹿児島に戻ったからなのです。

光専寺の現在のご住職は16代目。
西南戦争があったのは、13代目のひいおじいさんが17歳だった時のこと。

ひいおじいさんは、布団をかぶって戦見物に出かけました。
(布団をかぶっていれば弾に当たらないだろうと考えていたのだとか)
そして川にさしかかった所で、河原に並んで座らされた官軍の捕虜たちが、薩軍の兵士によって次々と首をはねられるという、恐ろしい光景を目にしたのです。

「首をはねた途端、血が一間(1.8m)ほども飛んだ」
という生々しいお話も伝わっていまして、ぎょっとさせられました。

幕末とは関係ありませんが、お寺の門は加藤清正が寄進したものだそうです。
お寺で湯茶の接待を受けたお礼に、作ってくれたのだとか。

まだまだおもしろいお話がありますが、それはまた次の機会ということで。

兵士の墓

アルファポリスにご投票下さった方に心からお礼申し上げます。

「風雲の刻」が完結したらアルファポリスの「ドリームブック」に応募してみようかと思っています。
「ドリームブック」に公開して、90日間で300人の購入予約が得られれば、出版最終審議にかけられるのだとか。
現状で300ポイントゲットは不可能だけど、自力で出版するのは不可能なので、何もやらないよりはましかな、なんて思っています。
予定は未定ですが、その時はブログ&サイトで大宣伝しますので、是非ぜひよろしくお願いします。

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いきなりお墓の画像でごめんなさい。

「史跡めぐり=お墓めぐり?」
というぐらい、史跡を追いかけていると、お墓にたどり着いてしまうわけですが、この画像は田原坂からほど違い七本官軍墓地で撮影したものです。

西南戦争全体での官軍戦死者6711名の約7割が熊本県内で亡くなっているそうです。
ここ七本官軍墓地には乃木さんの部下だった・河原林少尉以下300余名が埋葬されていますが、熊本県内には他に20か所の官軍墓地があります。
玉東町役場の近くにある「高月官軍墓地」にいたっては980名にのぼる官軍兵士が埋葬されているのだとか。

激戦中にきちんと埋葬することは当然不可能だったわけで、当時は仮埋葬した場所に名前などを記した木の札を立ていたそうです。
田原坂の資料館へ行けば、木札の実物を見ることができますよ。

墓石には階級・指名・所属隊名・戦死した日・場所および出身地が刻まれているのですが、墓石の大きさが階級ごとにきっちり決められていることに気が付いて、ちょっと複雑な気分に。

軍夫のお墓にいたっては、少し外れた所にごくごく小さい墓石が並んでいるだけ。
警視庁抜刀隊のお墓も少し離れた所に並んでいますが、こちらは士族ゆえか墓石もやや大きめでした。

何もここまできっちりと階級分けしなくても、なんて思うのは私だけ?
墓地の真ん中に立っていると、まさしく官軍兵士に囲まれている気分。
ちょっと、いや、かなり怖い(>_<)

七本官軍墓地のすぐ近くに七本柿木台薩軍墓地なるものがありますが、こちらは大きな碑が建っているだけです。
薩軍兵士のお墓については、興味深いお話を聞いてきましたので、気が向いたらご紹介させて頂きますね。

篠原国幹

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コメントを頂いたのが嬉しかったので、「西南戦争史跡めぐり in 熊本」 、つまりはレポートを再開させて頂きますね♪

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5月15日のブログに以下のように書きました。

■明治10年3月4日 第一次総攻撃
吉次峠と田原坂の両方を攻撃するも失敗。

この日、吉次峠で壮絶な最期を遂げたのが、薩軍一番大隊長の篠原国幹です。
ものすご~く無口な人でして、熊本隊の隊長だった池辺吉十郎によりますと、話を聞こうと訪ねて行くと、座敷には上げてくれたものの、向かい合って座ったまま最初から最後まで一言もしゃべらなかったのだとか。

そのうちお昼時になって、篠原さんの奥さんが昼食を運んで来てくれたけど、やっぱり篠原さんはしゃべらない。
午後になって、さすがに居たたまれなくなってきて、「失礼いたします」と告げた時も、ぺこりと頭を下げただけでしゃべらない。

こんなに無口で大隊長が務まるのかと思いきや、以下のような指揮ぶりだったそうです。
「常に兵士に率先し、身自ら銃をとって射撃するのみ。かつて一語の号令を発せず。しかして兵士らの運動、意のごとくならざるはなし」
ひとことも発することなく兵士を意のままに動かす男。
篠原国幹おそるべし。

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明治10年3月4日。
この日、篠原国幹は緋裏の外套を身にまとい、銀装の太刀を帯びて、最前線で指揮を執った。

「大切なお身体ですから、安全な所へお移り下さい」
悲鳴にも似た部下の叫びを笑って聞き流し、銃弾が雨霰と降る中に凛然と立ち続けた。

その姿に目をとめたのが官軍の江田国通少佐。
彼は篠原国幹の後輩で、篠原の顔をよく知っていた。

「緋裏の外套の男を狙え」
江田の合図で官軍の狙撃手たちの小銃が一斉に火を吹き、篠原は地面にくず折れた。

篠原が倒れて間もなく、江田国通も薩軍の弾に当たって戦死した。
かつての仲間が敵味方に分かれての果てしない銃撃戦。
この日、官軍が撃った小銃の弾は数十万発。
数百メートルにわたって掘られていた塹壕が薬莢(やっきょう)で埋まり、飛び交う弾丸が空中でぶつかり合った。

篠原国幹の「弔い合戦」はすさまじく、当初優勢だった官軍は、吉次峠を抜くことができずに敗退した。
その日から官軍の兵士たちは吉次峠のことを「地獄峠」と呼ぶようになった。

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篠原国幹の遺体は大きな棺に入れられて、丁重に熊本へ運ばれました。
そして、今、彼が戦死した場所には、「篠原国幹戦傷之地」碑が建っています。

碑に向かって大きな枝を伸ばしているのは桜の巨木。
春になれば見事な花を咲かせることでしょう。

花は桜木、人は武士
風に散りゆく桜の花は
薩摩隼人の手向け花

警視庁抜刀隊

熊本旅行のお土産話も今日で4日目。
そろそろやめようかなあと思ったり、もう少し続けてみようかなあと思ったり、微妙なところ。


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官軍はいかにして田原坂を手中にしたか。
それは警視庁抜刀隊の活躍によるものだとされています。
まずは田原坂戦の推移を見てみましょう。

■明治10年3月4日 第一次総攻撃
吉次峠と田原坂の両方を攻撃するも失敗。
二兎を追うものは一兎をも得ず。

■3月6日 第二次総攻撃
攻撃目標を田原坂に絞って正面から突撃するも失敗。
正攻法では薩摩軍には勝てない。

■3月7日 第三次総攻撃
正面及び左右から田原坂を攻めるも失敗。

■3月8日
田原坂の西にある二股台地を占領。
台地上に砲台を築き、砲撃で薩軍を圧倒した後、西から攻める戦法に切り替え。

以後、官軍・薩軍一進一退。
日中は銃火器に勝る官軍が陣地を広げるが、日没後は薩軍が抜刀切り込みで陣地を回復。
官軍の兵は白兵戦では全く役に立たず、頭を痛めた官軍は警視庁巡査隊の志願者による抜刀隊を編成。
警視庁抜刀隊が加わった3月14日以降の先頭では、薩軍は日中に奪われた陣地を夜になっても回復できず、じりじりと丘の上に後退していった。

警視庁抜刀隊と言えば、戊辰戦争で賊軍にされた東北諸藩の士族、なかでも会津藩士が多かったようです。
「戊辰のかたき!」
と切り込んで行った中には、斎藤一のような猛者もいたわけですから、薩軍も苦戦したはずです。

当時、田原坂の警視庁抜刀隊は、見た目の良さも手伝ってか大変な人気で、凱旋した巡査が抜刀隊の服装で第一回内国勧業博覧会に参加して評判になったとか。

画像は田原坂のふもとにある豊岡眼鏡橋。
官軍の兵士たちはここに終結して突撃の合図を待っていたのです。
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