2005年12月

木戸孝允日記

クリスマスに木戸孝允日記をゲット!
嬉しくって顔がゆるみっぱなしです(^^)

「木戸孝允日記」は、その名の通り明治元年4月1日から明治10年5月6日にいたる木戸(幕末時は桂小五郎)さんの日記でして、昭和7年のクリスマスに東京大学出版会から発行されました。

明治元年4月1日の日記の「岩倉卿に出る」を皮切りに、綺羅星のごとく有名人の名前が並ぶこの日記。
少しずつ現代語訳して楽しみたいなと思ってます。

明日はいよいよ仕事おさめ。
大掃除をして、夕方からは忘年会です。

ようやく

故障していたパソコンがようやく治りました。
これで年賀状の宛名が印刷できる。
でも、その前に裏面をデザインしなくては。
まともなデザインは先日作ったので、幕末モード全開でいこうかしらん?
なんて、考えてます。

AM3:00
一応できたんですけど、なんだか微妙な仕上がりに(>_<)

ほっと一息

今年最後の出張が無事(?)終わりました。
12月は本当に忙しかった。
これでようやくバイオリンと中国語を再開できます。
あ、でも、中国語は春まで休んじゃおう(寒いから)。

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12月16日~18日 Takamatsu

小学校の体育館、加えて言えば極寒の中で講義をしたのは生まれて初めてです。
マイクを持つ手が震えてましたけど、寒がっているのは大人ばかりで、子供たちはものすごく元気でした。

初日は座学と商品作り、18日は販売体験がメインだったのですが、商品作りが時間通りに終わらず、大人5人が子供たちの作りかけをホテルに持ち帰り、夜の10時過ぎまでかけて予定数量を完成させました。

私が作った超悲惨なハイビスカスのコサージュ、絶対、売れ残ると思っていたのに、こっそり自分で買うつもりだったに、いつの間にやら売れていました。
購入された方、ごめんなさい。
ガタガタの縫い目も子供が作ったと思えば許せるけど……。

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12月20日~21日 Taisha

2日間で10ヶ所ばかり取材して来ました。
例えばこんな所↓

天保年間創業の造り酒屋 「古川酒造」
酒造業を営む以前は代々出雲大社の宮司をなさっていたそうです。
天井からぶら下がっているのは酒林。
奈良の大神(おおみわ)神社で作られたものを毎年取り寄せているそうです。

img20051222.jpg


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嘉永年間の落書きがある老舗旅館「すたに旅館」
「備中高新見新田丁 吉佐屋 長造 嘉永五年三月七日 同行四人伯」
と記されているようです。

img20051222_1.jpg


大広間には戊辰戦争の折に越後口で戦った林有造(逓信大臣・農商務大臣)の堂々たる書が飾ってありました。
この広間、現在は宴会場として使用されていますけど、以前は大本営のお偉方が泊まったVIPルームだったようです。
金箔を貼った襖に囲まれていたことから「金の間」と呼ばれていたのだとか。

img20051222_2.jpg


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夢中になってお話を聞いていたら、予約していたバスに乗り損なってしまった。
チケットは紙切れとなり、再度片道キップを4000円で購入するはめに(涙)。
高速道閉鎖直前に広島にたどり着きました。
ノロノロ運転のせいで帰宅は深夜。
無事帰れただけでも、良しとすべきかな。

偽りはもって真に似たり

「赤根武人処刑地の碑を検索したらこちらにヒットし、数ヶ月分読みふけってしまいました」
というメールを頂いて、密かに(おおっぴらに?)喜んでおります。
ということで、コメントへの感謝をこめて赤根武人がらみのお話など。

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「偽りはもって真に似たり」

高杉晋作、赤根武人、そして山県有朋。
この三人の名前を並べた時、「奇兵隊」という言葉を最初に思い浮かべる方は、なかなかの幕末通と思われる。

奇兵隊の創立者はご存知の通り高杉晋作である。
東行庵に建つ墓の墓碑銘は「東行墓」だが、高杉自身は大庭伝八に宛てた書状の中で、
自分の墓碑銘の筆頭に「奇兵隊の開闢総督」を掲げることを希望していた。
奇兵隊を創立したことは、彼の誇るべき事績だったのである。

奇兵隊においては、総督と言えば高杉晋作ただ一人で、二代目以降は総督ではなく総管と呼ばれていたらしい。
高杉が去った後、一人で隊を統率するのは難しいと思われたのか、二代目総管に選ばれたのは滝弥太郎と河上弥市の二人だった。

河上が生野の義挙に加わるために数名の隊士と共に奇兵隊を去った時、河上の穴を埋めるべく総管に選ばれたのが赤根武人だが、画期的な人事であったことは想像に難くない。
先の三名はいずれも萩藩の藩士だが、赤根は柱島の医家の息子に過ぎなかった。

養子縁組によって武士の身分を手に入れていたとは言え、それでも支藩の陪臣に過ぎないわけで、
隊士たちの中にはこの人事を喜ばなかった者も大勢いたはずだ。
滝が奇兵隊を抜けた後、総管より一つ格下の軍監として赤根を補佐することになった山県有朋も、
恐らくはその一人だろう。

元治元年八月五日。
英米仏蘭の連合艦隊が馬関を攻撃した。
圧倒的な武力格差にも関わらず、奇兵隊は勇敢に戦ったが、この時、隊を指揮していたのが赤根武人である。

馬関の豪商で奇兵隊のパトロンでもあった白石正一郎の日記には、赤根の凛々しい指揮ぶりを彷彿とさせる記述が散見されるが、奇兵隊日記には何も記されていない。
記されていないというより、戦闘のあった八月五日から九日までの記述が、何者かによって抜き取られているという。

必死で戦っている赤根たちの知らない所で、長州藩は諸外国と和議を結ぶことを決めた。
止戦講和談判の正使に選ばれた高杉は、赤根たちに何も告げぬまま敵艦に赴いて、さっさと戦争を終結させてしまった。
この時、赤根がどのような感慨を持ったかは伝わっていない。
だが、馬関防衛を任される立場にあっただけに、恐らく良い気はしなかっただろう。

高杉は赤根と話をするべきだったが、実際はそれどころではなかった。
禁門の変で破れ、馬関戦争で破れると、それまで藩を牛耳っていた正義派に代わって、俗論派が台頭してきた。
正義派の主だった者は捕らえられ、高杉は九州に亡命した。

これより先、赤根は眼病を口実に辞表を提出して帰郷していたが、部下に説得されて隊に戻っている。
戻るべきではなかったのかも知れない。
外国の脅威を目の当たりにした彼は、藩内あるいは国内であい争うことの不利を悟り、国中が一致団結して事にあたる必要性を痛感していた。
だからこそ、九州から舞い戻ってきた高杉が俗論政府を倒すために挙兵しようとした時、赤根は真っ向から反対した。
当初は山県たちも赤根の側についていたが、高杉は彼に賛同するわずかな人数とともに決起した。

赤根には赤根の策があった。
その頃、彼は、投獄されている正義派を救うべく俗論政府に働きかける一方で、幕府による長州征伐を回避するための下工作を行っている最中だった。
けれども全ては高杉の挙兵によって水泡と化し、態度を硬化させた俗論政府は捕らえていた正義派をことごとく処刑した。

赤根の論理でいけば、同志を死に追いやったのは高杉晋作ということになる。
けれども革命が成功したために、高杉と赤根の立場は逆転する。
内乱を起こすことなく政権を取り戻そうと画策していた赤根の真意は理解されることはなく、彼の立場は次第に危ういものとなっていく。
やむを得ず、活動の拠点を上方に移そうとした彼は、大阪で幕吏に捕らえられ、京都の六角獄に入れられる。

公武合体のために周旋したいという旨の書簡を獄中から幕府に差し出したことは、彼の人生における決定的なミスと言えるかも知れない。
死にたくなかったのも確かだろう。
でも、それ以上に、着々と準備が進められつつある長州征伐を何とかやめさせなくてはという気持ちが強かったのではなかろうか。

赤根の願いは幕府によって聞き届けられ、彼は牢獄から出ることに成功するのだが、幕府から許された彼の言葉に、長州藩が耳を傾けるはずもない。
反逆者として捕らえられ、一言の弁解も許されず、鰐石河原で斬首された。

慶応二年一月二十五日。
寒風吹きすさぶ中、刑場に引き立てられた赤根の獄衣の背には「真は誠に偽りに似、偽りは以って真に似たり」という言葉が記されていた。
さぞかし無念だっただろう。
赤根は能弁家だったというから、口を開けば自分の正義を理路整然と証明することができたのかも知れない。

贈位の制度によって赤根武人の名誉を回復させようという動きが最初に起こったのは、明治四十四年のことだった。
復権はスムーズに果たされるかと思われたが、最終段階で山県有朋と三浦悟楼の横槍が入り、結局実現しなかった。

赤根の失脚によって最後に奇兵隊を握ったのは山県有朋だった。
明治二十年四月二十日。首相官邸で伊藤博文夫妻主催の仮装舞踏会が開催された時、様々な仮装で身をかためた政府高官の中で、奇兵隊の軍服を身につけた山県の姿は一際人目をひいたという。
奇兵隊の軍監を皮切りに、山県は出世を重ねていった。
最終的に軍閥のトップに君臨する彼にとっても、奇兵隊は特別な存在だった。

「赤根の心中を理解できず、その生命をまっとうさせてやれなかったのは残念だった」
赤根と対立した高杉は病床でそんな風に語ったというが、山県は、「自分の目の黒いうちは、決して赤根に日の目は見せない」と言っていたという。
明治の顕官となった男が、悲惨な最期を遂げたかつての同志に対し、四十年以上も持ち続けた憎悪の中身とは、一体何だったのだろう。

「真は誠に偽りに似、偽りはもって真に似たり」

真も偽りもあいまいな世の中で、自らの正義を訴え続けた青年の言葉に心引かれるのは、私だけではないだろう。
奇兵隊と深い関わりを持つ三人の男たちの明と暗を思う時、物語のように勧善懲悪とはいかない現実社会の混沌を思わずにはいられない。

がっかり

昨日の夜、無事(と言えるかどうか?)高松から帰ってきました。
あんなに寒い思いをしたのは何年ぶりでしょう。
さらに言えば予期せぬトラブル続きで悲惨な状況でしたが(悲惨すぎて詳しく語る気にもなれない)、最後は何とか帳尻をあわせることができました。

阿南市、大方町、そして高松市と三ヶ所で展開した事業はこれにて終了。
それにしても、県民性って、本当にあるものなのですね。
どこがどうとは敢えて言いませんが、個人的には高知がやっぱり一番好きかな。

坂本龍馬が叫んだという「ほたえな!」という一言、今も高知で普通に使われていることを知って、ちょっとびっくり。

「私はいごっそうでして……あ、この意味、わかります?こっちの言葉で頑固者という意味で……」
いごっそうですか……いごっそうなら仕方ありませんね。
なんて心の中でつぶやきながら、相手のセリフにうなずいたりして……妙な部分でひそかに楽しませて頂きました。

明日への英気をやしなうべく、お昼までごろごろしていた所、宅急便が届きまして、宅配業者の方にひどい姿を見せてしまったショックも手伝って、さすかに目が覚めました。

起きたついでにバス会社に電話を入れた所、出雲行きのバスは運休でした。
はたして私は明日次なる出張の地に行けるのか?
日程をずらしてもらって、もう一日のんびりしたいなあ~なんて、ものぐさなことを考えてます。

(追記)
その後の打ち合わせで、バスがだめならJRで行くことに決まりました。
くたびれついでにもう二日間がんばってきます。
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