2004年11月

円政寺

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高杉晋作&伊藤利助(後の伊藤博文)ゆかりの円政寺。
ちなみに桂さんの家もすぐ近くです。

ご住職のお話によれば、もともとは大内氏の祈願寺だったそうです。
大内氏が滅びた後、毛利氏が山口市円政町にあったこのお寺を萩に移築したのだとか。
ちなみに幕末当時の名は法光院といいます。

伊藤博文は幼名を林利助と言いまして、9歳まで現在の山口県光市束荷で育ちました。
真偽のほどは不明ですが、萩の伊藤博文別邸でお伺いした所によりますと、利助の父親の十蔵はもともと庄屋でしたが、困っている人や貧しい人から無理やり年貢を取り立てることをしなかったために、ついには自らが没落し(!?)、逃げるようにして萩へ出稼ぎに出たのだとか。
(庄屋話は少し、いえ、かなり嘘っぽいけど、出稼ぎ話は本当です。この時、利助6歳)

利助が母親とともに萩へ移ったのは、父が出稼ぎに出てから3年後。
十蔵が足軽・伊藤家の養子となったために利助も伊藤姓になるわけですが、その少し前、たしか11歳の時、利助は1年半にわたって円政寺に預けられています。

当時の円政寺の住職は恵運という人でしたが、利助の母親とは従兄妹関係にありました。
利助は円政寺で雑用のかたわら、読書や手習いを手ほどきを受けたといいます。
そんなわけで円政寺には、利助が使っていたという背負い子(薪などをくくりつけて背負う道具)や硯が、今も残っています。

ところで、このお寺は、「晋作と利助」が仲良く遊んだ場所だそうですが、本当かなあ?
林利助11歳。高杉晋作13歳。桂小五郎19歳。
円政寺を舞台に繰り広げられる日常は、こんなものではなかったのかと…。

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「利助と小豆餅(あずきもち)」

江戸屋横丁に面した法光院には、色々な人がやってくる。

「ご苦労だね」
庭掃除をしていると必ず声をかけてくれるのは、同じ通りに面した和田の屋敷に住む桂さん。
藩医である和田家の長男でありながら、90石の桂家を継いだ桂さんは、有備館での剣術稽古の帰りに必ず寺に立ち寄って、金毘羅社の前でぺこりと頭を下げていく。

「かっこいいなあ」
寺の門から半身を乗り出して、上背のある後姿をうっとりと眺めていると、反対の方角から「小豆餅」がやって来た。

(来たぞ。今日こそ)
僕はあわてて境内の中ほどに戻り、竹箒(たけぼうき)を握りなおして体勢を整えた。

「こ…こんにちは…」
今、初めて気が付いたような顔をして挨拶をしたけど、小豆餅は例によって無反応。
あばたの散った顔をこちらに向けることもなく、下僕を引き連れてスタスタと境内に入り、ご住職と二言三言言葉を交わした後、くるりと回れ右して、再びこちらへ近づいてきた。

「あの…さようなら…」
恐る恐る声をかけてみたけど、やっぱり無反応。
一体、何てやつなんだ。
僕はまたまた、むかっ腹を立てた。

身分が違うのはわかっているけど、同じ子供なんだから挨拶ぐらいしてくれたっていいじゃないか。
そう思うものだから、ムキになって小豆餅が来る度に声をかけるけど、何度やっても同じこと。
どうやらあいつの前でだけ、僕は透明人間になってしまうようだ。

なおも未練がましく様子を窺っていると、小豆餅は金毘羅社の前でぴたりと足を止めた。
桂さんのように頭を下げるわけでもなく、何か願い事をする風でもなく、挑むような目でじっと天狗面を睨みつけ、睨むだけ睨んだ後、満足したように帰って行った。

「高杉の坊ちゃんが気になるようじゃな」
図星をさされ、思わず箒を取り落としてしまった。
「金毘羅社の天狗面を見ていたので、どうしてかなと思って…」
しどろもどろで小豆餅の奇妙な行動を説明すると、ご住職はからからと笑い出した。

「こんにちは」
きっとその日の僕は、笑みを浮かべていたに違いない。
すると、どうだろう。
僕と一瞥だにしなかった小豆餅が、ついに足を止めた。
一瞬、足を止め、ちらりと僕の顔を見て、そのまま何事もなかったように行ってしまったけど、たったそれだけのことで、僕の胸は一杯になった。

(ついに小豆餅が僕を見た!)
小豆餅が去った後、僕は箒を頭の上でぶんぶん回しながら、そこら中を走り回った。

それから挨拶を返してくれるようになるまでに半年かかった。
普通に会話ができるようになったのは、小豆餅、いや、高杉さんが、松下村塾に入門してからだった。

「あの時のヘラヘラ顔は一体何のつもりだったんだ?」
ヘラヘラ顔は失礼だけど、高杉さんはあの日のことをちゃんと覚えていた。
僕はあの時と同じ笑顔を作ってみせただけで、何も答えなかった。

もしも正直に答えていたら、きっとボコボコにされたに違いない。
ご住職はこっそりと僕に教えてくれたんだ。

幼い頃のあなたが、ひどく弱虫だったことを。
金毘羅社に掛けられた天狗面を見る度に大泣きして、お母上に叱られていたということを。
泣きながらも、毎日のように天狗面を見に来ていたということを。

「武士は色々と大変なんじゃよ」
ご住職に言われて、僕はあの日初めて、小豆餅が武士であることを意識した。
すると、なぜだろう、いやな奴だと思う気持ちが薄れて、少しだけ小豆餅のことが好きになった。

え、今はどうかって?
それは…秘密だよ。

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晋作はとっても怖がりで、円政寺の天狗面を見ては泣いていたという、ご住職のお話より。
ちなみに、少年時代の晋作のあだ名は「小豆餅」だったそうです。

維新の湯

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ご存知、松田屋ホテルの「維新の湯」。
当然だけど、このお風呂には松田屋に泊まらないと入れません。

「晋作も入ったのね」と思うと大感激。
これだけでも比較的高額の宿泊料を払う価値があると納得するあたりは、やっぱり幕末ファン。

松田屋ホテルの解説によりますと、このお風呂ができたのは、1860年。
1860年でピンとこなければ、「八一八の政変」の3年前だと言えばわかるかな。

「維新の湯」に入ったとして名前があがっているのは、高杉晋作、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬、伊藤博文、大村益次郎、山県有朋、井上聞多、三条実美などですが、まさしく「維新の湯」メンバーで維新が成ったというぐらいきらびやか。

ここに画像をアップできたのは、別に隠し撮りをしたわけではなく、「維新の湯」が家族風呂だからです。
人がいない時を見計らって浴室に入り、鍵をかけてしまえば、そこはもう私たちだけの幕末維新ワールド!
ここぞとばかり、宮藤さまと盛り上がっちゃいました。

「西郷さんが入ったら、お湯が半分ぐらいなくなりそう」
なんて思わず口にしてしまうほど、意外と小さなお風呂です。
大の男が4人も入れば、恐らくとっても窮屈なはず。

ちなみに松田屋ホテルのお庭には、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通が密議を行った、南州亭という東屋がありますが(山口なのになぜ松菊亭でないのか疑問)、密議の後で、
「今までのあれこれは、水ならぬお湯に流して…」
なんて、伊藤さんあたりの妙な提案にのせられて、みんなでお風呂に入っていたとしたら、とんでもないことになっていたはず。

ジャボーンと入った途端、ザザッーとお湯がなくなってしまう西郷さん。
(周囲は大顰蹙・本人は大恐縮)
他人のことなど考えず、狭い湯船の中でゆったりと手足を伸ばす大久保さん。
伊藤さんに苦笑いされながら、木戸さんは、薩摩勢から視線を逸らしつつ、かどっこのあたりで小さくなっていそうです。

こんな妄想が思う存分楽しめる「維新の湯」。
是非、一度、お試しあれ!

赤根武人と山県有朋

山口湯田の赤根武人顕彰碑です。
赤根さんをご存知ない方のために、おまけのエッセイもつけますね。

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光を当てれば、影ができる。
奇兵隊の光が高杉晋作だとしたら、闇を象徴するのは赤根武人に違いない。

赤根武人は、高杉晋作、河上弥一に継いで、第三代の奇兵隊総管となった人物である。
柱島という小さな島の医者の息子だが、ずばぬけた秀才の上、島では珍しい美丈夫だった。

こんな風に書くと、悲劇性を高めるための作り話と思われそうだが、「白皙長身眉目秀秀の偉丈夫…雄弁滔々、条理整然…」という、彼を知る人の記録がちゃんと残っているので間違いない。
島の娘は皆武人に夢中になり、後に彼の妻となる庄屋の娘マキもその1人だったらしい。

赤根と言えば、思い浮かぶのは高杉晋作と山県有朋だが、赤根が奇兵隊のトップに立った時、山県はナンバー2の軍監であり、総管を補佐する立場にあった。
2人の間に何があったのかはわからないが、山県は赤根を憎んでいたようだ。

反逆者という汚名のもとに惨殺された武人だが、明治22年に西郷隆盛が正三位に追贈されたのを皮切りに贈位ブームが始まると、名誉回復の機会が到来した。
武人の義理の父の実子である赤根篤太郎が、贈位の申請をしたのである。
史談会で調査した結果、「充分贈位に足る」との結論が出されたが、最後の事務手続きの段階で山県が猛然と抗議した。

権力の頂点に立つ当時73歳の山県が、
「自分の目の黒いうちは決して赤根に日の目は見せない」
と激怒し、四境戦争の詳しい情況まで記した意見書を史談会に送りつけたものだがら、皆、震え上がってしまった。
大正になってからも、何度も武人の贈位申請が出されたが、とうとう取り上げられることなく、贈位制度そのものもなくなってしまった。

結論を言ってしまえば、高杉晋作らと意見対立したことは確かだが、赤根武人が反逆者だったとは言い難い。
彼は彼なりのやり方で藩を救おうと必死だった。
敢えて縛についたのも、どうどうと申し開きをして自分の正義を理解してもらおうとしたからだ。

だが山口に送られた武人は、一回の審問もなく、一言も弁明も許されぬまま、斬刑に処せられる。
享年29歳。
武人が着ていた獄衣の背には、
「真は誠に偽に似、偽りはもって誠に似たり」
という謎めいた辞世が記されていたという。

斬られた首は鰐石河原に晒された。
胴体から引き出された腸は、竹に渡して鳥がついばむのにまかされた。
奇兵隊日誌の中から、武人が活躍したはずの四境戦争の記述が破り捨てられた。
武人の実父は狂い死にし、妻も夫の後を追った。

今、彼が処刑された場所には、おおすみ美術館のオーナーである大隅健一氏が昭和28年に建立なさった顕彰碑が建っている。
「憂国の士 赤禰武人顕彰碑」と彫られた自然石の碑はなかなか立派なものだが、夕闇の中に浮かび上がる様は、やはり陰鬱で、見ていると薄ら寒い気がしてくる。

武人を救えなかったことを、高杉晋作は後悔していたという。
それなのになぜ…。

奇兵隊の真の闇は山県だったのかも知れない。

大久保利通

メルマガをようやく配信することができました。
趣味でやっているはずなのに、月末が近づいてくると、仕事の締め切りが迫ってくるような気になるのはなぜかしらん?やっぱ、性格?

今回の大久保利通特集はいかがでしたでしょう?
悪人扱いするのは気が引けるし、かと言って持ち上げる気にもならないし…。
ということで、私のあいまいな大久保評を反映した作品になっています。

大久保利通と言えば、興味深いページを発見しました。
http://www.entre.gr.jp/koriyama/machiko/mk9908/tokusyu2.html
大久保利通の4代あとのご子孫である大久保利泰氏のご講演記録のようですが、利泰氏によりますと、西郷隆盛を敬愛する鹿児島人が、西郷さんを死に追いやった大久保利通を受け入れるまでには、100年の年月がかかったのだとか。

100年かあ。長いなあ。
大久保さんは、それだけ多くのこと(多くの者?)を犠牲にしたということなのでしょうね。

「恨まば恨め。憎まば憎め。我、甘んじて受け入れん」
といった所かな。
大勢の恨みをかっていたことは、もちろん本人も知っていたでしょうが、特に警戒する風もなったそうですから、その時になれば、暗殺すらも、甘んじて受け入れる覚悟だったのでしょうか。

大久保さんが長生きしたら、どんな世の中になっていたのでしょう?
目の前に立ちはだかる者をなぎ倒しながらの国づくり。
その延長線上に私たちが生きているわけですから、やっぱり気になります。

東光寺

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毛利家歴代藩主とその夫人(3代、5代、7代、9代、11代)が眠る東光寺。
「禁門の変」の責任をとらされた三家老、野山獄で処刑された十一烈士、自ら命を絶った周布政之助、俗論党に自刃を命じられた清水清太郎などの墓標もずらりと並んでいます。

奥へ進めば進むほど、じわじわと体感温度が下がっていくのはなぜなのか?
このひんやり感は行った者にしかわからない。
最奥の藩主の廟に到る道沿いには、延々と石灯篭が並んでいて、何やら侵入者を見張っているかのよう。

そう、ここは聖域なのです。
夜、うっかり迷い込んでしまったら、とんでもないことが起こるかも。
そう、例えば…。

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<東光寺の夜>

「何をしている」
唐突に声をかけられて、少年はびくりと肩をふるわせ、足を止めた。
恐る恐る振り返った目に映ったものは、闇の中にぽっかりと浮かんだ小さな灯火。

1つまた1つと、さざなみのように広がっていくそれが、ずらりと並んだ石灯篭の火だと気づく頃には、500基ある全ての灯籠が、青白い灯火をたたえていた。

不安に駆られた少年は、あわててその場を逃げ出そうとしたが、ゆらりと立ち上がった人影が、少年の行く手をふさいでしまった。
一つ、二つ、三つ…十を超える細長い影が、門の向こうからふっと現れては、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。

懸命に恐怖と戦いながら、少年は歯を食いしばった。
砂利を踏みしめながら歩いているはずなのに、足音は全く聞こえない。
どす黒い影は、石灯籠の灯火に照らされて、次第に人の形を鮮明にしていく。

驚いたことに、不気味な人影は、いずれも武家髷を結った男たちだった。
年齢も服装もまちまちで、仰々しい裃姿もいれば、白っぽい着流しを着た者も、羽織袴をつけた者もいる。

「これは珍しい客人じゃ」
裃をつけた年配の男が少年を見て驚いたようにつぶやくと、同じような格好の貴公子然とした若者が口元に笑みを含んでうなずいた。
この二人のやりとりが合図ででもあったかのように、男たちは、震える少年をぐるりと取り囲み、てんでにしゃべり始めた。

「ちょうど酒盛りをやっていた所だ。おい小僧、お前も加われ」
「周布さん、子供相手に何を言う。かわいそうに。おびえちょるではないか」
「ほう、怖いのか?」
「そりゃ、怖かろう。いくらあの男の息子でも、現世を生きる者から見れば我々は…」

息子。
少年はその一言に反応して無意識に顔をあげた。

父親のことは何一つ覚えていない。
母を残し、年老いた祖父母を残し、幼い息子を残して逝った男だが、長州の危機を救った英雄だという。

家に残された写真を見る限り、そんなすごい人物とは思えない。
だが祖父は、ことあるごとに父の名前を持ち出しては、少年の劣等感を刺激した。
今日だって、そんな弱虫では高杉家の当主にはなれないと叱られ、勢いにまかせて家を飛び出した。
どうしてこんな所へ入り込んでしまったのかは、実は少年にもわからない。

そこまで思いが到った時、男たちの一人がいきなり腕をつかんできた。
ぞくりとするような冷たい手を、少年は夢中で払いのけ、その勢いで尻餅をついた。

「助けて!」
涙声で叫んだ途端、まるでその言葉を待っていたかのように、木の葉がくるくると舞い上がり、灯篭の灯が勢いよく燃え始めた。
そして再び静寂が訪れた時、目に前に一人の青年が立っていた。

「こんな時間にここへ入り込んでしまったことは僕があやまる。息子をそろそろ許してやっては、もらえまいか」
着流し姿の痩せた青年は、藩主の墓標に向かって深々と頭を下げてから、穏やかに、それでいて有無を言わさぬ口調で、男たちに告げた。

「人聞きの悪いことを言うな。いじめていたわけではないぞ。あまりお前に似ているものだから、つい…」
「つい、酒宴にお誘い下さったわけですか?ありがたいことではありますが、今から酒の味を覚えたのでは先が思いやられる。酒宴には後ほど僕が参加させて頂くとして、とりあえず息子を家まで送って参りましょう」

「さあ、帰るぞ」
青年はこちらを振り返り、ごくごく自然に手を差し出した。
ひやりとした手の冷たさは、さきほどの男のものと同じだったが、今度は恐ろしいとは思わなかった。

引っ張り上がられ、立ち上がっても、少年は手を離そうとはしなかった。
痩せて骨ばった手は、やはり英雄のものとは思えなかったけど、失われていた記憶を呼び起こしてくれた。

この手に頭を撫でられたことがある。
早く大きくなれと頬ずりされたことがある。

「東一、たとえ姿は見えなくても、僕はいつもそばにいる」

家の前まで来ると青年は夢のように消えてしまったけど、彼が残した最後の言葉は、闇夜を照らす一条の光のように、少年の心の中でいつまでも輝き続けた。
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